日清戦争と日露戦争の違いとは?効率よく学習するためのコツについて
公開日:2018/12/19
こんにちは。四谷学院の古川です。
中学社会で習う「日清戦争」と「日露戦争」。
どちらの戦争も近現代の分野に出てくる出来事ですが、起こった時期が近いということもあり、受験生からは「内容の区別がつきにくい」という声をよく聞きます。
今回は、この2つの戦争の違いをわかりやすく解説していきますので、どちらに関係する事柄なのかを整理しながら覚えていきましょう。
日清戦争とは?
日清戦争は日本と清国の間で1894(明治27)から1895(明治28年)にかけて行われた戦争です。
ロシアの支配が東アジアにまで拡大されていたため、危機感を抱いた日本はロシアの勢力支配が自国に及ばぬよう、まだどの国からも支配されていなかった朝鮮半島を支配することを考えました。
しかし、清国が朝鮮半島を自国の支配下に置いていると主張していたため、朝鮮半島の支配を巡って日本と清国の戦争が勃発しました。
1894年7月に、ソウル近くの豊島沖で日本軍と清国が激突。これを「成歓の戦い(日清戦争の最初の主要な陸戦)」と言います。
そして8月1日に日本が清国に対して宣戦布告をしたことにより、日清戦争が開戦しました。
この戦争は、近代日本が行った初めての外国との戦争です。
下関条約の締結
1895年(明治28年)に日本と清国の間で下関条約が締結されたため、日清戦争は終結し、日本が勝利しました。
下関条約の主な内容は以下の通りです。
- 清国は朝鮮の独立を認めること
- 清国は遼東半島(りょうとうはんとう)、台湾、澎湖諸島(ほうこしょとう)、を日本に譲り渡すこと
- 清国は賠償金として2億両(約3億1000万円)を日本に支払うこと
三国干渉
日本は下関条約によって様々な利益を得ましたが、このことについてヨーロッパの列強国は黙っていません。
特に遼東半島が日本のものになることはロシアにとって不都合なことでした。
1895年4月、ロシアは仲の良かったドイツとフランスとともに遼東半島を返還するよう日本に圧力をかけました。
日本はこの要求に従い、1895年5月、遼東半島放棄を閣議決定しました。
この出来事を「三国干渉」といいます。
日露戦争とは?
日露戦争は日本とロシアの間で、1904年(明治37年)から翌年の1905年(明治38年)にかけて行われた戦争です。
日本は日清戦争で手に入れた遼東半島をロシア・ドイツ・フランスからの返還要求によって手放しましたが、その後、ロシアは清国で起きた義和団事件(義和団が生活に苦しむ農民を集めて起こした外国の勢力を排除しようとした事件)を鎮圧するために満州に軍を派遣し、満州全土を占領します。
これを受けて、朝鮮半島もロシアに支配されかねないと危惧した日本は、イギリスと日英同盟を結んで、朝鮮半島と満州の権益をめぐってロシアに対抗しました。
これによって日露戦争が勃発します。
日本は苦戦しながらも日本海海戦などで勝利しますが、やがて戦力が限界に達し、ロシアも国内で革命が起こるなどあって、両国とも戦争が続けられない状態となります。
ポーツマス条約の締結
ポーツマス条約とは、日露戦争を終わらせる際に、アメリカの仲介により、ポーツマス(アメリカの軍港)で結ばれた、日本・ロシア間の講和条約です。
ポーツマス条約の主な内容は以下の通りです
- 日本が朝鮮半島の保護権を持つこと
- 両国とも満州から撤退すること
- ロシアは長春以南の鉄道利権などを日本に譲渡すること
- ロシアは樺太(サハリン)を日本に割譲すること
- 日本海、オホーツク海、ベーリング海のロシア領地沿岸における日本の漁業権を認めること
戦争は終わりましたが、賠償金を得られなかったことや日本の得た権限が少なかったことで、日本国民は不満を抱きます。
1905年(明治38)9月、日比谷公園で行われた講和条約反対国民大会に集まった人々が暴徒化し、内相官邸、国民新聞社、警察署・交番などを焼き打ちするという暴動事件が起こりました。
学習のポイント
日清戦争と日露戦争を勉強するうえで、特におさえておくべきポイントは2つです。
- どこをめぐっての戦争だったのか
- 結果はどうなったか
この2つの点を意識して勉強すると覚えやすいでしょう。
また、シンプルなことですが、まず「どちらの戦争が先に始まったのか?」ということを把握しておくことで、その後の知識がすんなりと頭に入ってくるようになるので、この点も意識してみてください。
こんな記事も読まれています
前の記事 » 2020年教育改革!今後伸びる学習塾の特徴について
次の記事 » 教育サービス業としての学習塾、今後求められる理想の姿とは?