受験生がよく間違えやすい聖武天皇と桓武天皇の違いについて
公開日:2018/12/05
こんにちは。四谷学院の古川です。
聖武天皇(しょうむてんのう)と桓武天皇(かんむてんのう)。
どちらも日本史の『古代』の分野に出てくる天皇ですが、受験生が意外と間違いやすい二人なのです。
今回は、聖武天皇と桓武天皇の人物像や、それぞれの天皇が行ったことをわかりやすく解説します。
聖武天皇とは
聖武天皇は、天武天皇のひ孫にあたる人物で、724年に即位した、45代目の奈良時代の天皇です。
奈良にある東大寺の大仏をつくったことでも知られる、古代史の天皇の中では、最も有名な天皇の一人です。
当時の日本では、飢饉や疫病が発症したり、貴族による内乱が起こったことによって、政治は乱れ、庶民の暮らしは不安定な状態となっていました。
こうした状況の中で、聖武天皇がやったことは、以下のようなことです。
仏教を取り入れた国造り
聖武天皇は、仏教の教えを取り入れた国造りを積極的に進めた人でした。
当時は、皇族・貴族の争いごとが絶えず、飢饉や伝染病も流行しており、聖武天皇は「どうしたら人々が幸せに暮らせるだろうか」と考えました。
そこで、奈良の東大寺に巨大な大仏を建立し、様々な災いが鎮まることを祈ったのです。
この大仏は、743年に造像が発願され、実際の作業は745年から始められました。
そして752年に、大仏に魂を入れる儀式である、開眼供養会(かいげんくようえ)が行われました。
完成までに9年を費やし、のべ200万人以上が大仏作りに関わったとされています。
また、聖武天皇は仏教によって社会の不安を鎮めようと、全国各地に国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)を設置しました。
墾田永年私財法の制定
聖武天皇は743年に墾田永年私財法を制定したことでも有名です。
従来の制度では、いくら土地を開墾して田畑を耕しても、孫までの3代の間しか所有することができませんでした。
つまり最終的には国に返さなければいけなかったため、農民の労働意欲が下がっていき、やる気が起きない状態が続いていました。
そんな時に、墾田永年私財法を制定し、開墾した土地は永久に自分のものとすることを認めたのです。
これにより、貴族や有力者が広い土地を所有することになり、結果として、中央集権的な天皇の力を弱めることへと繋がっていきました。
桓武天皇とは
桓武天皇は、781年に即位した、50代目の奈良時代~平安時代の天皇です。
有名な語呂合わせに、「鳴くようぐいす平安京」というのがありますが、これは794年に桓武天皇が、平安京に都を移したことを指した言葉です。
では、桓武天皇がやったことを見ていきましょう。
都の遷都
まず、桓武天皇は784年に都を平城京から長岡京へ移しますが、天災や身内に不幸(祟り)が起こったのを理由に、794年に平安京に都を移します。
これは、「こんなに災害が起こるのは天皇が原因じゃないのか?」と思われ、民衆が反乱を起こすのを恐れてのことだと言われています。
蝦夷討伐
また、桓武天皇の行った政治では、蝦夷討伐が有名です。
蝦夷(現在の関東地方と東北地方)との戦争は、桓武天皇が即位する前から行われていましたが、本格化したのは桓武天皇の時代からです。
3度目の遠征で、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、軍を送りました。
坂上田村麻呂は、蝦夷を次々と破り、朝廷の支配地域を広げていき、その活躍によって、現在の岩手県盛岡市に志波城が建設されました。
この時代の天皇は、幼い頃に即位することが多かったので、しっかりと政治を行うことは多くありませんでした。
しかし桓武天皇は、都の遷都や蝦夷征伐など、積極的に政治を行っていた珍しいタイプの天皇でした。
新しい仏教の保護
文化面では、最澄や空海を遣唐使として唐に送り、そこで学んだ新しいタイプの仏教を保護したことも、桓武天皇がやった大きな功績です。
当時の仏教は大きな問題を抱えていました。
まだ平城京が都だった時代に、仏教が深く政治に介入してしまったため、国が乱れてしまったのです。
桓武天皇は、同じことを繰り返さないために、政教分離を目指しました。
しかし国にとって仏教は必要なものなので、優秀な僧である最澄や空海を唐に派遣し、新しい仏教を取り入れることにしたのです。
いろいろなことを積極的に行った桓武天皇ですが、まずしっかりと官僚としての経験を積み、そして40代で即位したことが、桓武天皇の能力を成熟させ、大きな政策も実行できたのだと言えるでしょう。
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